先輩からのメッセージ 私の生きる道 ~ろう文化と看護のコラボレーション~

皆川 愛(みなかわ あい)
ギャローデット大学 特別学生
2015 年聖路加国際大学看護学部卒業
聴覚障害

写真:皆川 愛さん
皆川 愛さん

99号 2018年3月31日発行 より


手がひらめく世界で

 わたしは自分について、ろう者(聴覚障害者の中でも、文化的アイデンティティを持つ人)である両親から受け継がれた「ろう文化」を持つ存在だと認識しています。視覚言語である日本手話を第一言語として身につけ、両親を呼ぶ時は机をトントンたたいたり、電気をパチパチさせたりする生活様式を自然と身につけてきました。例えば、拍手は手をたたくのではなく、手をひらひらさせます。言葉に抑揚をつけるときには、手の振りの大きさやスピードで表現します。話すときも呼ぶときも、手がひらひら舞う、それがわたしの観える世界の全てであり、不自由を感じることはありませんでした。
 小学校はいわゆるインクルーシブ教育で、地域の小学校に入学しました。周囲はみな聴者(耳の聞こえる人)であり、ろう者はわたし一人だけでした。もちろんわたしの第一言語である日本手話は通じません。入学当初、作文の時間に他の児童がスラスラと書いているのに対し、私は筆が進みませんでした。日本手話では自分の気持ちや考えを表現できても、それを日本語では表現できずに劣等感を抱きました。さらにろう者と聴者の生活様式の違いにも戸惑いました。友達を呼びたくて肩をたたくと嫌な顔をされたり、その逆に友達がわたしの名前を呼んでいることに気が付かず「無視された」と怒られたりもしました。
 当時の私は、こうした全てのことは、耳が聞こえず日本語で表現できない自分が悪いのだと思っていました。そしてこの頃から、自分のことを「聴力損失」という欠陥のある障害者として捉えるようになったのだと思います。そして、聞こえないことによるハンディを自身で乗り越えなければならないというプレッシャーも同時に感じていたように思います。

写真:ろう者の拍手
ろう者の拍手

法律改正によって拓かれた看護の道へ

 小学生のある日に母から「高校の時に薬剤師になりたかったけれど、法律の壁に拒まれた」と話を聞き、社会には「聞こえない」ことによる絶対的な障壁があると感じました。多様なろう者との出会いを重要と考えていた両親は、週末にろう者が集まるフリースクールやイベントに私を連れていってくれました。そこで出会った早瀬久美(はやせ くみ)さんという方が、ろう者として初めて薬剤師免許を取得したことを知りました。2001 年に保健医療従事者関連法における国家資格取得要件が絶対的な欠格条項から相対的記載に改正され、ろう者にも保健医療関連資格取得への道が拓かれたのです。母が過ごしていた時代とは変わって、ろう者を取り巻く社会が前進していることを目の当たりにした時の感銘を、今でも昨日のことのように覚えています。
 そしてわたしが看護の道を意識し始めたのは、中学時代のある日の朝、iPS 細胞の発見という新聞の朝刊の一面記事がきっかけでした。iPS 細胞によって、一度は機能しなくなった細胞組織を再生できるようになるということを知り、そのことが、自分が医学的に聞こえるようになる可能性を孕んでいるのだということに嫌悪感を覚えたのです。「聞こえるようになるなんて嫌だ!私はろう者のままがいい!」と心から叫びました。「聞こえない」ことに対して、難聴という医学的診断があり、それが病気、異常であると捉えられている一方で、ろう者という言語的文化的視点があり、それに誇りを持って生きているろう者がいることに気がついたのです。
 この気づきは同時に、病気や障害について考える契機となりました。例えば脳梗塞によって右半身麻痺が起これば、歩行や食事といった生活行為のあり方や環境が変化します。それと同じように突発性の難聴者にとっては、聴力が失われれば、コミュニケーション方法の変容を強いられるのであり、それは人生にとっての大事なのだと考えるようになりました。病気やその治療が彼らの生活や精神面にどう影響するのかについて興味を持ち、生活に焦点を当てた看護の道を選びました。

看護界・学生双方に求められる多様性

 私が看護師を目指して大学を受験しようとしていた当時は、首都圏の看護大学で手話を第一言語とするろう学生は在籍していませんでした。複数の大学に入学の可否の問い合わせや入学後の情報保障について相談に行ったところ「聞こえない人が看護師になれるわけがない」、「患者に不安を与えるだけだ」と言われました。こうした対応に煩悶していた状況の中で、学びのチャンスを保障してくださったのが聖路加看護大学(現在の聖路加国際大学)でした。高校までは、授業の話がわからなくても教科書に書いてあることが全てなのでなんとかなると信じていました。しかし「良い看護師になるためには、大学時代からきちんと学んで、社会に還元できることが重要ですよ」と先生にお言葉をいただき、学ぶ責任の重さを知りました。また「看護職は、障害や病気、文化など多様な背景を持つ者を対象とする点で、学生のうちから多様性に触れることは重要であり、だからこそ皆川さんがいることはとても意義がある」と仰っていただいたこともわたしに力を与えてくれました。実際に卒業後、ある患者のろう者の方から「この前入院した時に担当の看護師さんがとても良かったの。手話や筆談でちゃんとコミュニケーションが取れたし、なにより態度がすごく気持ち良かったの。なんか自然で。話を聞いたら皆川さんの同級生だったの」という話を聞くことができ、先生の仰っていた多様性の重要性を感じることができました。
 大学としても、ろう学生の受け入れは初めての試みでしたが「多様な学生の学びに関するプロジェクト」を設立し、支援にかかわる金銭面や人材面を組織的にバックアップする体制も整えてくれました。看護を学ぶろう学生としてのわたしが直面した課題の1つは、講義室や現場実習先で飛び交う音声情報をどう得るかということでした。先生方と相談し、手話通訳やパソコンテイクといった情報保障を受けながら講義や実習に参加しました。また聴診器については電子聴診器の使用とともに、聴診以外の視診や触診で情報を収集し、必要時は先生や看護師に依頼し、その結果を教えてもらうことで対処しました。大学側の理解や先生方の全面的な協力もあって、結果的に充実した学びを得ることができ、2015 年に大学卒業と同時に看護師免許を取得しました。

写真:パソコンテイクの画面
パソコンテイクの画面

ろう当事者の看護師の意義と強み

 卒業後は大学病院への勤務を希望しましたが、複数の病院から「コミュニケーションがとれない看護師はいらない」と門前払いされました。これらの病院では、ろう者であるわたしが患者や医療スタッフとコミュニケーションがはかれるのか、様々な機器やアラーム音が聞き取れるのかという課題に責任を持って対処できない、と判断したからだと思います。そうした主張に対して私は、コミュニケーションについては、手話通訳や筆談で対応すると訴えましたが、病院は音声日本語を中心に組織として機能しています。人件費などの経済的な面も含めて、ろう者が看護師として音声言語を中心として組織の中で勤務することは簡単ではないのだと痛感しました。
 そして埼玉県にあるろう者のための特別養護老人ホーム「ななふく苑」に入職しました。そこはほとんどの利用者がろう者であり、手話が公用語です。手話は音声言語とは異なる規制統語を備えた言語です。手の動きだけでなく、表情や眉の動き、身体や手の振りの大きさ、スピードなどが重要な文法要素です。例えば痛みには、ズキズキ、ピリピリ、ジンジンといったように、その性質を表すオノマトペがあります。これらの言葉にもそれぞれ手話表現があります。ズキズキであれば顔をしかめたり、痛みの部分が押しつぶされそうな手の動きをしたりと、表情や手の動きで訴えてくるものがあります。痛みの程度については、顔の表情のほか、手や身体の振りの大きさで表出されることが多いため、それらを捉えます。聴者が痛みの熾烈さに言葉を失い声が小さくなるのと同じように、痛みの程度が非常に強ければ、ろう者は手の振りの大きさで表される抑揚が小さくなることがあります。カルテに記入する際は、日本手話から日本語に翻訳する作業を伴うため、誤訳を生じないよう、最大の痛みを10とした際、1 から10 のうちどの程度なのか、ろうの利用者さんに答えてもらい、客観性を保つようにしています。このようなろう者の細かな訴えを把握できるという点では、看護師である私がネィティブの手話話者であることは一つの強みだと考えています。逆に、わたしが聴者の利用者に接する際に、大事な場面では、聴者の看護師に入ってもらい、コミュニケーションのずれの確認などをサポートしていただいていました。
 学生時代からの課題であった聴診器については、目で観察したり、特に身体に触れたりして情報を収集しました。例えば、痰が詰まっている部位を特定する際、聴診器で水泡音と呼ばれる雑音を聴取して把握する方法があります。しかし、わたしはその異常音が聴取できないため、他の方法を考えなければなりませんでした。水泡音はなぜ生じるのか、呼吸によって身体に空気が取り込まれると、空流で痰が振動し、かつ痰を突き破るような、バリバリという音が聞こえるのです。呼吸が大きければ大きいほど、その空流の強さに伴って振動が大きくなります。そこでわたしは利用者の方に大きく呼吸をしてもらい、肺野を触って振動を把握する方法を用いていました。些細なことかもしれませんが、協力してもらうことに対して利用者の方に感謝の気持ちを伝えることで、自分にも役割があると思ってもらえるように心掛けました。なお、把握に自信がないときは聞こえる看護師に聴取をしてもらいダブルチェックを行いました。ろうの入居者には「あなたはよく触ってくれるから安心する」と行っていただき、嘱託医には「私たちのように聞こえるものは聴診器で観察を済ませがちだけど、目で見たり触れたりすることが観察の本質だね」とポジティブな言葉を頂きました。聴者とは異なる方法でのアプローチや視点が、逆に強みになることを学びました。

「普通」って何だろう

 ろう者との関わりを通して、ろう者に対する看護のあり方について様々な課題も見えてきました。例えば、意識レベルを査定する際にジャパンコーマスケールと呼ばれるアセスメントツールがあります。その中に「普通の呼びかけで開眼する」という項目があります。普通の呼びかけとはなんでしょうか。多くの人は日常会話程度の声で呼びかける方法が頭に浮かぶと思います。さらに「大きな声、または身体を揺さぶることによって開眼する」とあります。大きな声を出してもろう者には聞こえません。そもそも「呼ぶ」という方法に対して、聴者とろう者にズレがあるのです。私の職場ではほとんどの入居者がろう者なので、肩をたたく、身体を揺さぶるといった使い分けで判断しました。このように、アセスメントツールをろう者に適用する際は、ろう者に合わせたやり方を考えてなければ、アセスメントを誤る恐れがあるのです。
 また、目の神経や血管などの細部を観察する検査で用いる散瞳薬は、文字通り、点眼液によって瞳を拡張させます。しかしこれには目が霞むという副作用があります。目から多くの情報を得ているろう者は、見えにくいという状況に大きな不安を感じます。さらに手話や文字も霞んで見えるので、コミュニケーションにも困難を生じます。そのためろう者の患者の方には、散瞳薬をつける前に、副作用とともにあらかじめ検査の流れや注意点を説明して、より慎重に同意を得る必要があります。さらに検査中に視界が不明瞭の間は、より見守りや付き添いを強化し、危機を回避したり、精神的な安心を与えたりすることが重要であるとわたしは考えています。
 ろうの入居者の中には、手術などの医療行為が必要になって一時入院する場合があります。全身麻酔下の手術では両腕を拘束することがほとんどです。両腕が不自由になると、ろう者は手話が使えず筆談もできないため、話す術を失います。さらに、ほとんどの医療従事者は手話ができません。そのためろう者は、周囲が何を話しているのかわからず、自分の言いたいことが言えない、いわば言葉の通じない国にいるのと同じような気分を味わうことになります。このような孤独感や不安について予め医療従事者に伝えて、配慮してもらえるようにサポート体制を作ることも、ろうの看護師の一つの役割だと考えています。
 このように医療の世界には、アセスメントツールや、検査や治療の進め方などが聴者に合わせて作られているものが多々あります。普通とは、多数者を基準にしたものであって、少数者には考慮されていないことがしばしばあるのです。

看護に文化的視点を

 わたしはろう文化について学問的に学ぶために、職場の「ななふく苑」をいったん退職し、この1 月から米国のギャローデット大学に留学しています。1864 年に設立されたろう者のための大学であり、ろう文化の研究も盛んに行われています。
 ろう文化の研究者であるハーラン・レーンは、ろう者についての伝統的な見方は、聴力損失に焦点を当て、それは治療やリハビリで解消するのが望ましいという医学モデルであり、ネガティブな視点が多いと指摘しています。一方で、1980 年代より文化的な見方についての言説が出てきました。ろう者の間で伝承されてきた言語としての手話や生活様式があり、それらは文化であるというものです。
 一般の社会の中でろう者はほとんどの場合において、聞こえない人というラベルを貼られ、彼らの生活にはほとんど目を向けられていません。例えば、看護師が患者に訪室を知らせる際のドアのチャイムやカーテン越しの声かけは、ろう者には気が付きません。ろう者はチャイムと連動して光るランプを使用したり、カーテンをひらひらさせたりといった方法で、相手に知らせる生活様式を持っているのです。「聞こえない」という医学的側面だけでは、訪室のタイミングが分からないことや、手術時の両腕の拘束がどれほどの不安をもたらすのかということ、入院時の孤独感等といった、生活や言語の様式の差異から生じる課題を見失う恐れがあります。時には先ほど書いたジャパンコーマスケールの例のように、アセスメントに間違いを生じる恐れも孕んでいます。看護職に携わるわたしたちは、患者の方の治療や検査、入院などの生活に直接的に関わる立場です。だからこそ、ろう者へ看護を提供する際には、文化の観点に敏感になる必要があると考えています。
 近年欧米を中心に「異文化看護学」という学問が発展しています。例えば、イスラム教信者は豚肉を穢れとみなしているので食する習慣がありません。彼らに院内食として豚肉を提供するでしょうか。多くの場合は代替の食事を提供するでしょう。このように宗教は彼らの生活に大きく影響しています。看護職はこのような生活様式や価値観を学び、適切にアセスメントし、その結果に基づいたケアを提供する必要があるのです。大学の先生がおっしゃっていた「看護に求められている多様性」とは、こういうことなのだと身にしみて感じます。この考えを元に、わたしは看護学生や医療者に対して、ろう文化という異文化側面から考える看護のワークショップを随時行っています。

おわりに

 わたし自身がろう文化という概念を学ぶ中で、小学生時代に自分が抱いていた違和感は、ろう者と聴者との文化の差異によるものだったのだと気がつきました。学問というのは、自分自身を模索し、理解を深めるのを助けてくれるものだと思っています。
 わたしは音声日本語でのコミュニケーションは難しいけれど、日本手話でなら責任をもって話を聞き、伝えることができます。そしてろう者の文化に即した適切なアセスメントや不安や孤独感を予測し、それらに対するケアができます。このことに思い至ってからは、聴者とどう釣り合わせようかという葛藤がすっと消え、ろう者である自分にできる看護とは何かを考えるようになりました。やってみなきゃわからない、そう思ってここまできました。わたしは大学卒業寸前も自分の行く道は闇でしたが、自分が帰属するろう文化、つまりろう社会の中で、当事者の強みを生かして働く道もあることを教えてもらいました。またわたしが聴者の看護師に聴診器の聴取を依頼したり、逆に手話での情報収集を依頼されたり、それぞれの強みを生かした協働によって仕事は成り立つことを学びました。出会いと助け合いは道を拓くということ、道は色々あるということを感じています。