先輩からのメッセージ「あ・か・さ・た・な」で大学へ

天畠 大輔(てんばた だいすけ)
ルーテル学院大学 社会福祉学科4年
写真:天畠 大輔さん
61号 2008年9月19日発行 より

障害について

 まずは、自己紹介がてら私のことについてお話します。
 私は14歳のとき、体調を崩して病院に運ばれ、医療ミスにより心肺停止になりました。そのとき、医療担当者がその状態に気付かず20~30分放置されたことで、脳の運動機能にダメージが残りました。そのため四肢マヒ、言語障害、視覚障害が現れ、自力ではまったく動くことができないので、一日の多くの時間を車いすで生活しており、常時、見守り介助が必要な状態です。
 視覚に現れた障害は世界的にも非常にまれで、立体や色、人の顔は何とか認識できますが、文字の認識がほとんどできないという症状です。紙面やパソコンの画面など、平面のものは大変見えにくく、本を読むことが全くできません。そのため、学習においては、聴覚で情報を得て、頭にインプットして記憶しています。
 言語障害に関しては、発語がほとんど不可能です。コミュニケーションは、介助者に自分自身の手を引いてもらいながら言葉の一字一字を確認していく方法で行うので、アウトプットにはかなりの時間を要します。たとえば、「る」を言いたいときは、介助者の「あ、か、さ、た、な…」という声を聞き「ら」のタイミングで私が手を引きます。そして、ら行の「ら、り、る」の「る」のタイミングで再び手を引くというように、一文字ずつ文字をひろい、それをつなげていきます。知能における障害はありませんが、初対面の人とはコミュニケーションが取りにくいために、私が考えていることを相手に理解してもらえないことも多々あります。

高校時代

 障害をもった14歳から、肢体不自由養護学校へ転校しました。入れられたクラスは知的障害も持ち合わせた生徒が在籍する重複障害のクラスで、コミュニケーションが取れない生徒ばかりでした。そのため、授業内容は何か物を作ったりする作業が中心で、教科書は使用しないため、教科教育はほとんど行われませんでした。障害者になってからの1年間は、自分の障害をなかなか受け入れられず、元気だったときの友達と会うことも、外出することも極力避けていました。
 そんな中、私に訪れた転機が、高校2年のときに担任になった先生との出会いです。その先生は、「ああしろ、こうしろ」などとは決して言わず、また、優しい言葉をかけるのでもなく、自らの行動で導いてくれました。たとえば、障害者国体の観戦に強引に連れて行かれたのですが、障害者がこんなにたくさん集まっていることに驚き、しかもスポーツを楽しんでいる姿に感激しました。そして、いつの間にか応援していました。他には、学校の倉庫に眠っていた電動車いすを、私のために、毎日遅くまで残って改造してくれました。おかげで、私は校内を自由に動き回れるようになりました。これをきっかけに私の行動範囲はどんどん広がって、現在にいたったと思います。
 余談ですが、私は大学の卒論で、養護学校から大学進学した方に調査を行いました。ほとんどの方は、高等部2年までに、本人の人生に影響を与える先生に出会っていることが分かりました。また、2年生までにそのような先生に出会えなかった養護学校の生徒は、進学が難しいのではないかと考えます。
 私は、恩師との出会いをきっかけに、大学進学を目指しはじめました。学校側に大学進学の希望を伝えると、ある先生からは「大学進学なんて夢みたいなことを考えるな。お前はどうやって生きていけるか、現実をちゃんと見ろ」と、思いがけない言葉を言われたのです。この言葉から分かるように、私が通った養護学校では、後にも先にも進学希望者はまったくなく、進学相談担当の先生すらいませんでした。養護学校には、願書提出時に記入する高校コードを確認したいと思っても、知っている人さえいません。進学希望者がいないのだから仕方がないのかもしれません。
 そこで、両親とボランティアの仲間で受験についての情報を集めました。全国障害学生支援センター(前身の「わかこま自立生活情報室」)にも行き、いろいろ相談にのってもらいました。しかし自分の障害を理解してもらうためには、大学一校一校に足を運ぶ必要がありました。

写真:電車に乗って外出

大学受験

 私は2004年春にルーテル学院大学に入学しました。養護学校の高等部を卒業したのは2000年の3月で、大学入学までに約4年のブランクがあります。
 私はその4年間、受験させてもらうために文部科学省や全国の私立大学に数多くの交渉をしてきました。ある大学からは「どのようにして授業を受けるつもりですか?」と人ごとのような返答しか返ってきませんでした。また他の大学では、願書さえ受け取ってもらえませんでした。私が受験を希望している大学に障害者の入学の前例がないことや、障害の程度が重すぎるという理由で、受験が認められないこともありました。センター試験についても、私のような人がセンター試験を受けられるようになるためには5~10年の歳月が必要だと言われてしまいました。
 文部科学省や大学との交渉が難航する中で、受験勉強も平行してやらなければなりません。耳からのみの情報による勉強のため、受験勉強は英語を中心にしていました。しかし、受験校を増やすために日本史の勉強もすることにしました。試験で4択問題がある大学を選び、過去問をやってみました。すると、見なければ答えられない問題など、私にとっては捨て問題が2~3割あり、残りの7~8割を確実に取らなければ合格ラインに達しません。
 受験を申し込んでも、ほとんどの大学に断られる中、辛うじて受験させてくれた大学もありました。しかし、試験問題や受験方法、受験時間に何の配慮もなされていないところがほとんどで、はじめから私を入学させる意思がないことは明らかです。
 その中でもルーテル学院大学だけは理解を示してくれました。学校側と、配慮について何度も相談しました。受験当日は問題を読む先生と、私の解答を聞いて記入する先生をつけてくれました。しかし、ルーテル学院大学への入学もすんなりと決まったわけではありません。養護学校卒業後、3年目の冬に受験に挑戦するも失敗。その後1年間は、大学の様子を知るためや、大学側に自分のことを更に知ってもらうため、聴講生として千葉から三鷹まで、片道2~3時間、車に揺られて通っていました。こうして、体力的にも大学に通えることをアピールし、2度目の受験の際には、倍率が低く卒業までに6年間かけることができる神学科への入学を勧められ、受験しました。福祉科は4年間で、その課程には社会福祉の実習も組まれているのですが、それが無理だろうと判断されたことも、神学科を勧められた理由の一つです。大学に進学するための一番の壁は入試だと考えていたので、それさえクリアできれば何とかなるという思いがありました。そのため、一度受験に失敗した福祉科は諦め、学校側の勧めもあった神学科を受験しました。
 試験内容は英語と面接。英語の受験の際には、試験問題を読む担当と、私の解答を聞いて記入する担当の人が必要でした。また面接試験は、一般入試に予定されていた集団面接ではなく、個人面接にしてもらい、介助に慣れている父についてもらって受験しました。試験時間については、普通の試験時間の2倍の時間をもらいましたが、それでも足りませんでした。もし小論文の試験があったら、時間が足りなくて受験に失敗していたかもしれません。試験会場に関しては、問題の読み上げや、私の発言の解読に声を出す必要があったため、個室での受験となりました。
 試験には無事合格。入学が決まったことは嬉しかったけれど、授業をどうやって受けるか、ノートテイクをしてくれる仲間が集められるか、通学はどうするのかなど、悩みや心配もありました。当時は、通学に車で片道3時間かかる場所に住んでいたので、千葉から引越しをするかどうかを、まず親と検討しました。
 入学後1年間は神学科に在籍しましたが、神学科に通いながら福祉科の授業も受け、2年生から社会福祉学科に転科しました。

写真:秩父の山で友人と

学生生活での介助者について

 私が学生生活を送るにあたっては、授業時間のノートテイクや代弁、教室の移動、空き時間や食事・トイレの介助、学校の近くに引っ越してきてからの通学介助など、多くの介助を必要とします。他にも、プリントや教科書を読み上げてもらわなければなりませんし、レポートやテストも提出しなければなりません。そうした問題をどうクリアしていくかが、入学にあたっての最初の課題でした。
 入学決定後は、大学側から三鷹にある「障害者地域自立生活支援センターぽっぷ」を紹介してもらい、そこにヘルパーの登録をしていたルーテルの学生と出会いました。その学生と、それまで受験勉強などサポートをしてくれていた千葉大の学生を中心に、ボランティア募集のため、チラシを作成して配布したり、新入生のオリエンテーションでの呼びかけや、授業の合間に説明会を行うなどしました。
 養護学校時代は配慮があることが前提でしたが、大学ではすべてを自分でしなければなりません。健常者に囲まれた環境に入っていくことで、自らの障害を痛感しました。たとえば、飲み会に行くにも、そこで食べたり飲んだりするにも、介助者を探さなければなりません。
 1年生前期の最初の頃、授業は千葉大の学生がノートテイクを担当してくれていましたが、ルーテル学生のボランティアが集まってからは、ルーテルの学生だけで介助を回せるように引継ぎをしていきました。
 そのシステムで2年目を迎える中、自分一人で介助者を募集することには限界があると感じました。また、一人で私の介助につけるようになるためには、何度も関わりを持って練習する必要があるので、お互いにかなりの時間と労力を要します。他にも、大学全体のことを考えてみると、障害をもつ学生も増加しており、サポートの必要性も高まっていると感じました。そして「もし大学に障害学生を支援する組織があれば、ずっとやりやすくなるのでは?」と考えるようになりました。他の大学の障害学生支援組織と交流の機会を持って情報交換をし、他大学のシステムを参考にしながら、障害学生のサポート組織「ルーテルサポートサービス(通称LSS)」を作り、私が3年生になる4月より活動を開始しました。
 LSSの活動で苦労していることは、体力的な面を踏まえても、介助者に男性が少ないこと。また、誰に介助についてもらうかなど、シフトの組み立てや調整にも時間がかかることです。1年生の前期までは千葉から片道3時間(長いときは5時間)かけて学校に通っていましたが、1年生の後期が始まる頃には学校の近くに引っ越して、現在は友人と共に通学しています。今は、通学や授業などはLSSの介助を利用し、その他、外出したりする際には、重度訪問介護従業者の資格を持つ友人に、ヘルパーとしてついてもらっています。重度訪問介護のサービスは、通学や授業中には使えないことになっており、学校内ではボランティアという形でサポートしてもらっていました。
 2008年度には、LSSが大学直轄の団体として認められ、予算もおりるようになり、ノートテイクについてくれた学生には謝礼金が出るようになりました。障害学生支援のシステムが利用できるようになれば、「障害をもっていても大学へ!」と考える学生が更に増えるのではないでしょうか。

イラスト:りす
コラム1
LSSの活動について
 LSS(ルーテルサポートサービス)とは、障害を負った学生の学習権利を保障するために、学生のできる範囲でサポートを行おうという、学生有志の団体です。障害によって受ける学生生活上の制限を可能な限り軽減させ、安心して学べる環境を共に作っていくことを目的としています。また、直接のサポート活動だけではなく、学生同士が出会い、知り合う場となるべく、積極的な交流を図っています。具体的には、肢体不自由学生の登下校のサポートや授業中のノートテイクをはじめ、聴覚障害学生の授業などのノートテイクを、必要に応じて行っています。こうしたサポート活動のコーディネートもLSSの学生が中心となって行っています。現在は70名ほどのメンバーがおり、日常的なサポート活動に加え、学園祭への出店や、各界の著名人を講師に招いての、障害に関するイベント開催など、さまざまな活動を行っています。
写真:夜にLSSのメンバーと
コラム1 終わり

将来にむけて

 私は、昨年から1年半かけて「わが国の肢体不自由養護学校高等部における進路支援のあり方について ~障害者の大学進学を進めるためには~」というテーマで卒論を書き上げました。原稿用紙数十枚に及ぶものであり、当初は難しいのでは?と思っていたのですが、担当教授のアドバイスを受けながら、友人にノートテイクをお願いして進めました。何度も何度も方向転換し、その都度、先生を含めたみんなで協議しました。提出期間についても配慮してもらい、その結果、卒業が半年伸び、今年の9月に卒業です。時間は健常者の何倍もかかりましたが、何とか完成させることができました。
 このように、障害をもつ人も、健常者と対等に学ぶことができるのではないでしょうか。私は、今までのように、これからも様々な人々と出会い、そして、それらの人をつなげることで、新しい力を生み出せるようなネットワークを作っていきたいと思います。
 また、大学卒業後は大学院への進学を目指しています。介助者についてはまだ考えていませんが、何とかなるでしょう。今まで何とかしてきましたし。また将来については、コミュニケーション(具体的には、手話や点字、指点字や私が使用しているコミュニケーション方法など)についての研究者になりたいと考えています。しかし、まずは目の前のこと、大学院へ進むことから考えていこうと思います。
 最後に、私事になりますが、両親に心から感謝します。ありがとうございました。

写真:男友だちと韓国へ 現地の友だちと一緒に
天畠大輔さんのホームページ
 http://sky.geocities.jp/skyfarm1981/ 写真:シカゴの教会で 洗礼を受けました