今回インタビューを受けてくださったのは、視覚障害で保育士として働いておられる小川みきさんです。インタビューはzoomを使って行い、こちらからいくつか質問する形で進めました。
Q1.今回はインタビューをお引き受けいただきありがとうございます。まず、保育士を目指そうと思った最初のきっかけを教えてください。 A1. 私は未熟児網膜症で生まれてから視覚障害があります。私が通った幼稚園は公立の一年保育、つまり年長さんしかない地元の幼稚園で、そこに兄が通っていて、そこに入りました。実際には兄と一緒に通っていたわけではなく、私が入った時には兄は卒園していました。当時は自転車に乗れるぐらいの視力があって、もちろんひとりで歩いて移動することもできました。ただクレヨンで画用紙に絵を描く時は、目が画用紙にくっつくくらい顔を近づけていました。あとで考えてみたら、みんながすることと同じことをさせてもらえたというのがありがたいなあ、って思いますね。みんなと同じようにお絵描きをしたり、外遊びをしたり。 とにかくそれが楽しかったんですよね。先生が見えないからって心配して私にくっついていた、なんて記憶も特にないので、それなりに集団生活に入ることができていたのだと思います。
Q2.卒園後は視覚特別支援学校、当時の盲学校に入学されたんですね。一般の幼稚園から盲学校へ移ったことで戸惑いはありませんでしたか? A2. まあ、子供なんでそこまでは思わなかったけど。 ただ、盲学校は人数が少ない。小・中学部はずっと同学年のクラスメートは一人しかいなかったし、高校ではずっとひとりでした。 でも家に帰ったら幼稚園の時の友達とは行き来があったりしたので。本当だったら自宅から盲学校までは、寄宿舎に入るレベルの距離だったんですけど、親が通学させることを選んだので、毎日家に帰れたっていうのが良かったのかなと思いますね。
Q3.幼稚園や保育園の先生になりたいという気持ちはずっと持ち続けていらしたのですか? A3.「絶対なるんだ!」というわけではなかったけど、もし誰かが「大きくなったら何になりたい?」と聞いたとしたら、「幼稚園の先生」って言いたかった。盲学校に入ってしまうと、当時は、みんな鍼灸マッサージの道に進むんだと、小学生のころからすりこまれてしまっていたので、それ以外のことはなかなか口にできない雰囲気がありましたよね。 でも進路選択の時に何になりたいかと思ったら「もし目が見えたら幼稚園の先生かな」とどこかで思っていたんです。
Q4.ご自身の思いを諦めたくないと思って、公表したというか、具体的に動き始めたのはいつ頃のことですか? A4.高校の普通科まで盲学校にいていざその後どうするかを決めるときになって、そこから先は三療(あん摩マッサージ指圧、鍼、灸)の方に進むのが一般的だけど、それは絶対嫌だと思ったんですよね。三療師の仕事が悪いという意味ではないんですよ。ただ、三療で苦労してる人たちもいっぱい見ていた。国家試験でつまずく人もたくさんいたし、中途失明で40歳、50歳になってから盲学校に来てちゃんと勉強する先輩もいた。でも自分自身は決められた道として真っ先に三療に進まなくてもいいんじゃないか、最後の手段として残しておいてもいいのではと思うようになりました。 それに、小・中・高とずっと大分県の同じ盲学校の中にいてもうおなか一杯というか、ほかの世界を見たいって感じてましたね。 そこで保育士とか幼稚園の先生でなくても、子どもにかかわる仕事がしたいなと思ったんです。私は音楽が好きだったので、それまでは本当に趣味レベルでやってたんですけど、子どもにかかわることに生かせたらと思って。当時大阪府立盲学校の音楽科というのがあったのでそこに行くことにしました。そこは2年間で卒業なので、卒業して帰ってきてから理療化に行っても遅くない、と思ったんです。親はすごく反対しましたけどね。盲学校に行ったらみんな三療に行くもんだ、他に食べて行く手段はないんだからって思ってるから。「なんでわざわざそんな回り道をするんだ」という反応でした。そこで「たかが2年間だけだから」と半ば押し切って大阪に出てきたんです。それが18歳で、普通科を卒業した時ですね。
Q5.大阪の盲学校で音楽の勉強をされていて、保育士の道に進もうとさらに考えたのはどのようなきっかけからですか? A5.大阪の盲学校で、自分と同世代で自分と同じように点字使用の人たちが、実際に大学に行っているのを知ったんです。大分では話には聞いてたかもしれなけど、ピンと来てなかった。でも大阪でそういう状況を目の当たりにした時、「ここでなら興味のある方向の勉強ができるんだな」と分かり、それなら自分も幼児教育学科に進みたいと考えるようになりました。保育士とか幼稚園の先生になるには、そうした資格の取れる大学に行く必要があるということで、大学を調べ始たんですけど、そこからが本当に大変でした。調べてみたら日本の大学では、中途失明以外の点字使用者が幼児教育学科に進学した前例がまったくなかったんです。
Q6.大学探しは主にご自身で行ったんですか?協力してくれた人は? A6.主に自分で大学に電話したり直接出向いて交渉したりしました。反対する人もいましたが、大阪にいる叔母や盲学校の進路の先生が味方になってくれました。何十もの学校を回りました。叔母と車で回って、交通の便を考えてちゃんと通えるところかどうかも確認したうえで大学と交渉しました。最終的に通うことになった華頂短期大学は、わりと早い段階で受験には門戸を開いてくれました。ただ「実習先や就職先は面倒見ません」とか「テキストを大学では点訳しません」とか色々条件は並べられました。「それでも受験するならどうぞ」という感じ。でも当時としてはそれでも良かったんですよ。他では受験することすら認めてもらえないんですから。それに一般の人たちだって、そこで勉強したからといって全員が保育士になるわけでもないし「それなら私がとりあえず勉強するぐらいいいじゃないか」という気持ちでした。受験は認められたものの、1年目は落ちてしまいました。とても人気があるところなんです。当時の短大としては、受験倍率が高いほうでした。 そこで盲学校の音楽科卒業後、1年間浪人して予備校に通って再度受験して合格しました。
Q7.18歳から20歳といえばもっとも多感な時期ですよね。大学との交渉などいろいろと大変なことが多かったのは精神的にきつくありませんでしたか? A7.むしろそういうことができるというのはありがたかった。大分の盲学校では人数も少ないし、なにも刺激がなくて退屈だったというか。将来のことを語る友達もそんなにいるわけじゃない。だから大阪では、それまで退屈していたエネルギーがぶつけられるものがある。自分がやりたいことをやろうとしてる。そう感じたから苦にはならなかったですね。受験を断られてショックだったとか、浪人して気が沈んだとか、そういう感覚は全くなかったです。
Q8.短大に入ってからのことですが、勉強はどうされていましたか? A8.座学は問題ないです。授業にちゃんと出て、ちゃんとレポートを出しておけば大丈夫。教材は自分で必要なところを点訳依頼してました。最後の方は大学でも一部点訳を手配してくれましたけど。まあ、大学ではテキストは山ほど買わされるけど、ほとんど使わない、ってこともあるし(笑)。定期試験は受験の時と同じように別室で時間延長もあって、点字で受けられました。当時、視力はほとんど全盲で、不慣れな場所の一人歩きはできなくなっていましたが、寮に入っていたので、先輩から試験の出るところとか、その他いろいろな情報を得られたのも良かったです。
Q9.勉強のほかにどんな活動をされていましたか? A9.幼稚園とかお祭りとかを回って、人形劇を見せるクラブに入っていました。学内でももっともハードなクラブで、年間の1/3は合宿で寮にも帰らないような生活をしてました。常にクラブの仲間と一緒にいて、友達にも恵まれてました。クラブでも仲間の協力を得て、みんなと同じようにさせてもらってましたね。いろんな人形劇も一緒にやった。裁縫とか人形を作ったりとかは出来ないから、演出で台本とか音楽とかそういうのを裏方でやってました。
Q10.最後に、短大への受験から卒業までの体験を通して感じたことを教えてください。 A.受験のための学校探しでいろいろ断られたりしたけど、それはその担当者が、見えない人と接したことがないから戸惑うってことですよね。その戸惑いがすごくひしひしと伝わってくるので、戸惑い自体を責める気にはなりません。ただ、そこから一歩進んで相手を受け入れようとするのかしないのかというところが大事だと思います。まあ、こちらが誠意をもって伝えれば、それほどみんな意地悪じゃない。ただ「目が見えない人のことが分からない、じゃあどうしたらいいかな」そう考えようとしてくれる気持ちがあるか、ないか、そこが試されるんですね。そして、これは大人になってから感じるようになったんですが、そういう戸惑った人に会ったりそういう場に遭遇するごとに「やっぱり障害者が幼児に接することが大事だな」と思うんです。これは後付けの理由になりますが、そういう戸惑いがゆえに、障がいのある人を避けようとする人に会うたびに、幼い子どもたちがいろんな障がい者と接することは重要なことだと感じます。生活の時間を共有する中で、柔軟な子どもたちは自然に障がいのある人のことも受け入れる力を持っているからです。それでなおのこと、自分は保育の現場で仕事を続けたいと思いますね。本当に小さい、訳が分からないうちから、いろんな障害のある人がいるんだというのを、直に接することで知るのはすごく大事だなと感じます。それでなおのこと自分は保育の現場で仕事をしたいと思いますね。
結びに変えて 今回お話を伺った小川さんと私は、先天性の視覚障害であること、ほとんど同じ世代であること、また地域の幼稚園と盲学校の両方に通ったことなど、共通の体験が多く、お話の内容や生きる姿勢に共感できるところがたくさんありました。就職やその後の保育士としてのお仕事、ご自身の子育てについてなど、伺いたいことはまだまだ尽きないのですが、それはいつかの紙面に譲りたいと思います。今回は貴重なお話を聞かせていただき本当にありがとうございました。