先輩からのメッセージ 車いすで科学者になる ~歩けなくなってから復職するまで~

並木重宏(なみきしげひろ)
東京大学先端科学技術研究センター 准教授
肢体障害・電動車いす

写真:並木 重宏さん

119号 2023年3月29日発行 より


受傷して帰国

 私は元々生物学を研究する科学者でしたが、難病をきっかけに歩くことができなくなり、仕事をやめて、長期間の入院を経て、現在再び大学で研究を行っています。ここではその間の経験や気持ちの変化を文章にしてみます。
 私が障害をもつことになったのは、大学院を卒業して生物学の博士号を取得した後でした。自己免疫性の神経疾患で、2011年の東日本大震災の少し後、実家に戻った日の夜、布団に入ってから何か違和感をおぼえていましたが、起きて居間にもどると、右半身に力が入らなくなり、言葉が出なくなりました(声は出ているが、意味のある言葉になっていなかった)。そのうちに意識が混濁してそのまま入院しました。その後、薬を投与することで回復しました。以後再びこうした劇的な症状が出ることはないのですが、足の症状が徐々にあらわれていきます(図1)。
 一年ほどして、ランニングをしていると、足が何度も引っかかってしまい、つまずくようになりました。またこのころ頻繁に足がつるようになりました。たびたび足の力が抜けるような時があり、とても不安定な歩き方になることがありました。少し足を引きずるようになったため、杖を使うようになりました。この頃はアメリカの大きな研究所で働いており、研究がようやく実を結ぶ段階で、これからというときに、歩くことが難しくなってしまいました。当時は車いすや障害のある研究者を見たことがありませんでした。私は子どもの頃から科学者になりたいと思ってきたので、もうその道に進むことはできないと思い、大変落ち込んでいました。入院してからも、病名が分からないこと、これからの仕事のことに加えて、歩くことができない生活を想像することができず、苦しい日々でした。なかでも、自分がどこにも所属していないことについて、とても孤独を感じていました。

図1. 病歴と移動手段
グラフ:病歴と移動手段

他の患者さんとの交流と車いすへの想い

 アメリカの研究所を退職して帰国し、その後半年間の入院生活となりました。入院先は脳神経疾患の専門的な病院で、自己免疫疾患の患者さんでは若い人が多い一方、パーキンソン病などでは高齢者の患者さんも多かったです。若い患者さんとは仕事や生活についての困りごとを含めた話と、働き方の話が印象に残っています。夜に病棟の共用スペースでおしゃべりをするのですが、病気の患者会を自分で作って政策提言のために活動する人の話、足の不自由な人のための自動車運転補助装置を使って通勤する話などを聞きました。同じ病室では、退職された高齢の方が多かったのですが、一日中一緒だったので、彼らの昔話もたくさん聞かせてもらいました。写真家の方からは世界中を旅した話、国税局の方からは脱税の疑いのある会社に調査で乗り込む話、一年のほとんどを洋上で過ごしていた船長の話、元自衛隊の方がサバイバル訓練で蛇を食べる話などがありました。私は元々友人が少なくて話すことが苦手でしたが、これまでにないくらい人と話すことになりました。
 加えて入院中は毎日リハビリをしていました。リハビリでお世話になった理学療法士の方は、とても優しい人で、考え方や患者さんへのかかわり方に大きな影響を受けました。入院を経験して、私はこれまで自分の好きなことをやって生きてきましたが、これからは何か人の役に立つことがしたいと思いました。リハビリをしていたある時、この療法士の方に車いすの練習をした方がいいねと言われたとき、ふと涙が出ていました。歩くことができない状態での生活は想像できなかったからです。研究を職業としていたので、自分で論文や医学書を調べて、髄腔に薬剤を注入するものや、筋への信号伝達を弱める薬の注入するもの、筋肉を電気刺激したり、ロボットの可視装具を使う方法などを見つけて、実際に治療を受けました。残念ながら、いずれの治療でも元のように歩くことはできませんでした。次第に、もうできることはやったのではないかという何かあきらめのようなものを、頭ではなく体で理解することできて、その後は車いすをどう使うかということを考えるようになりました。車いすを使うようになったら、生活も大変そうで、仕事もできるかどうか分からない。そうしたなかで、どうせだったら使う車いすには妥協をしたくないと思い、世界中の車いすを探しました。そのなかで目に留まったのが、セグウェイを改造した車いすでした(図2)。ヨーロッパでは医療機器として認定されユーザーも多く、YouTubeなどでも紹介の動画が多くアップされていました。印象的だったのは、この車いすに乗って筋トレをしたり、子育てをしたり、孫と手をつないで歩いている動画があり、乗っている人がとても楽しそうなことでした。車いすとしては高額の、自動車くらいの価格でしたが、思い切って輸入することを決めました。
 車いすに乗るようになってから、街でじっと見られたり、他人の視線を感じる機会が増えました。これは車いすが珍しいからなのではないかと思います。私も車いすの人がいると、じっと見てしまいます。そういった意味で、車いすはよく目立っていて、当初は外出することへの心理的なバリアもありました。そして同時に、車いすを普通なものにするためにも外に出なくては、と思って出かけることもありました。積極的に外出するようになってから、日常生活のいろいろな場面で声をかけてもらうことがとても多くなりました。よく高齢の方から、車いすの相談を受けることが多いです。また、子どもはこの車いすにとても興味を惹かれるようで、よく「かっこいい!」といわれます。東京パラリンピックの後は、人気がさらに高まりました。また職場は犬の散歩スポットになっていますが、私の車いすは、犬にもとても人気があるようです(仲間だと思っている?)。こうしたことも車いすで外に出るモチベーションになっています。

図2.セグウェイ車いす「Genny 2.0」に乗る筆者
写真:セグウェイ車いす「Genny 2.0」に乗る筆者

再び科学者の道を目指して

 障害のある体になって、一度科学者になることはあきらめたのですが、入院中にインターネットで調べていくなかで、いくつか考えを改めるきっかけになることがありました。まず、実は世の中には障害のある科学者が多くいるということを知りました。スティーブン・ホーキング博士は車いすの天才科学者として有名ですが、他にも障害をもつ科学者が大きな発見・発明を行ってきた歴史があります。例えば周期表の元素のなかには、障害のある科学者によって発見されたものが多くあることはあまり知られていません。また過去にノーベル賞を受賞する研究成果をあげた科学者もいます(表1)。今の職場は大学ですが、そこにも目がみえず、耳も聞こえない盲ろうの先生や、脳性麻痺でやはり電動車いすの先生が教育や研究を行っており、その方々は自分が再び大学で研究を行うことへの大きな力になりました。
 もう一つプラスになったことは、アメリカ、イギリスなどの国では障害のある科学者の活躍を応援する文化的・制度的な土壌があることでした。世界で最も歴史のある学会であるイギリス王立協会では、障害のある科学者の科学への貢献をまとめて紹介するサイトを設けています。またアメリカでは国の政策として、科学技術分野への参加が少ないマイノリティに対する支援のしくみがあります。このマイノリティには女性・民族マイノリティに加えて障害者が含まれています。障害者を対象とした実験・実習を含めた科学教育プログラムに対する助成をする制度に加えて、障害のある研究者に対する研究継続支援や、研究の実施に必要な合理的配慮のための予算があります。これには実験室で使う支援技術や、手話通訳などの情報保障の人件費などが含まれています。

図3.スタンディング車いすを使い、立位で実験装置を使う様子
写真:スタンディング車いすを使い、立位で実験装置を使う様子
表1.障害のある科学者がノーベル賞を受賞した事例。
分野 名前 障害
1914 生理学医学賞 Robert Bárány 骨結核による膝関節拘縮
1928 生理学医学賞 Charles Jules Henri Nicolle 聴覚障害
1946 化学賞 James Sumner 片手の欠損
1964 化学賞 Dorothy Hodgkin 関節リウマチ、車いす
1973 生理学医学賞 Nikolass Tinbergen うつ病(ADHD)
1975 化学賞 John Cornforth 聴覚障害
1994 経済学賞 John Forbes Nash, Jr. 統合失調症
2009 生理学医学賞 Carolyn Widney Greider ディスレクシア

科学分野のバリアフリーが目標

 私は現在、大学で障害のある人の科学教育や、科学研究のバリアフリーに取り組んでいます。日本でも大学に進学する障害学生の数が増加しています。講義における支援についてはノウハウが確立しつつある一方、実験、実習の場面での支援は遅れており、理工系分野の科目において、障害のある人の参加は少ない状態です。例えば、実験室の設備には立位・歩行を前提とした設計が用いられており、車いすの利用者はこれらの多くを利用することができません。国連の人権条約では、障害のある人にも、他のすべての人と同じ教育や就労の機会を確保することが記載されていますが、少なくとも大学の理工系教育の場面では、同じ機会が提供されているとは言えない状況です。
 研究のゴールは、科学技術分野の障害者のハードルを下げることです。このため障害がある場合でも、安全に作業ができる実験室環境を検討したり、実験に関わる合理的配慮の手段を検討したり、アメリカのような制度的・文化的な環境を醸成する仕組みづくりに取り組んでいます(図3)。関心のある方ぜひお声掛けください、いつでも見学を歓迎しています。
 以前の研究生活と比べて、復帰後のバリアフリーの仕事を進めるうえで、いろいろな人と仕事やイベントを通じ、コミュニケーションをする機会が大幅に増えました。患者さんや、病院の医療者やリハビリのセラピスト、行政の福祉担当者など、会話をする機会がとても多くなりました。以前は人と話すことが苦手でしたが、人付き合いができるようになり、病気を通して、人と会話をするのが少し楽しくなりました。病気をせずに歩ける方がよいのは間違いないのですが、障害者になってよかったことも確かにあるのかなと最近思い始めています。