117号 2022年10月1日発行 より
私が生まれ育ったのは九州福岡市です。1938年12月に生まれました。今度誕生日が来ると84歳になります。 小学校(当時は国民学校)の1年生になったのが、1945年4月でした。当時日本はアメリカ・イギリス・中国などと戦争をしていました。戦況は圧倒的に負けていたのですが、そのような状況はまったく国民には知らされておらず、僕たちは戦争に負けるなんて思ってもいませんでした。 この年の6月に福岡市はアメリカ軍のすさまじい空襲を受けました。我が家はなんとか無事でしたが、たくさんの家が焼かれ、1千人を超える人々が命を奪われました。 戦争は8月15日に日本がポツダム宣言を受け入れ無条件降伏をして終わりました。戦後のひどい食糧不足と激しいインフレが私たちの生活を直撃しましたが、それでもやっと訪れた平和と「もう戦争はしない」と明瞭に書き込まれた日本国憲法の下で、安堵と未来への希望を感じる日々がやってきました。
終戦の11ヶ月後の1947年7月に不幸が我が家を襲いました。近所の小川の岸に捨てられていた不発爆弾が爆発したのです。単4乾電池ほどの大きさで、旧日本軍のものらしいと後で聞きました。一緒に遊んでいた5歳の弟は即死でした。小学2年生だった僕は、一瞬にして両目の視力と左右の手先の指をなくしました。 それからの13年間、本人も両親も就学を強く希望していたのに、どの学校にも入れてもらえませんでした。目が見えず指もないのでは点字が読めず、あんまや鍼灸もできないというのが盲学校側の理由でした。 そして18歳の頃に点字を舌先や唇で読むハンセン病患者のことを知って大きな感動を覚え、僕も挑戦しました。時間と努力は必要でしたが、やがて唇で点字が読めるようになった時の喜びは、今思い出しても例えようもないものでした。まさしく文字の獲得で人生の新しい道が開けました。
二十歳で盲学校の中学2年生に入学を認められました。中学部から高等部普通科に進み卒業するまでの5年間、盲学校の生徒の時代は実に楽しいものでした。そのころに社会科教員への夢が目的に変わりました。しかし教職に就くためには大学を卒業しなければなりません。しかし僕の二重障害がここでも厚い壁となって、入学試験すら受験できませんでした。結局通信教育で5年半かかって日本大学を卒業しました。盲学校中学部に入ってから大学を卒業するまでの13年間自分でも「猛勉強」したと思います。 32歳の時、全国初の点字による教員採用試験を受けました。高校世界史でした。合格したのですが、その後も紆余曲折を強いられ、もう1度受験し教員として本採用されたのは34歳の秋でした。それから約30年間母校高等部の社会科教員として勤務しました。
戦争が残した不発爆弾で重い二重障害を負わされましたが、それでも生きることが出来ました。生き抜いてここまで歩いてくることが出来ました。それができたのは偶然ではありません。人と時代に恵まれたからだと思います。自分自身が夢を目的に変えたり努力を惜しまないことは、当然必要なことですが、他人と自らを比較したり比べたりすることなく、人も自分も大切にする生き方を心がけてきました。そしてなんといっても平和で人権が大切にされる世の中を実現する活動にいろいろな場面で積極的に関わってきました。 「やり直すのに遅いということはない」 「教えるとは希望を語ること、学ぶとは胸に真を刻むこと」 こんな言葉を座右の銘にしてきました。