116号 2022年7月1日発行 より
私は、看護師になってからてんかんになりました。その後、うつ病となり仕事を一時休みましたが回復しました。そして72歳の現在まで、抗てんかん薬を服用しながら看護師として働き続けています。 初めてのけいれん発作は病棟師長をしていた38歳の時でした。当直で一睡もせず、学会に直行した日の夜、痙攣発作がありました。半年後、当直明けにまた発作があり、てんかんと診断されました。薬の副作用で眠気が強く、睡魔と戦うために職場では動き回っていましたが、家に帰るとそのまま寝込んでいました。腸閉塞で入院し、抗てんかん薬を止めたら体が楽になったので、医師には相談せずに薬を止めたため大きな発作を起こしてしまいました。頭では分かっていても、気持ちの上でてんかんを受け入れられなかったのです。その後薬を変えましたが、副作用も抱え、てんかん発作を時々起こしながら、管理職を続けてきました。 「てんかんであっても誰にも負けずに頑張る」と頑張ることが癖になって働き続けていました。精神科病院の看護部長のとき、子宮繊維症、卵巣嚢腫で緊急手術、術後に結核になりました。てんかん発作が頻発していましたので、迷惑をかけたくないと部長職を降りた時には、「うつ病患者」になっていました。 一生懸命働くことと、頑張りすぎることとは違います。からだは悲鳴を上げて「てんかん発作」でSOSを発していたというのに、またもや酷使して「うつ病」になったのです。その時の私は、社会から見捨てられたように感じ、どん底でした。 てんかんとうつ病の当事者として、回復の一歩を歩み始めたのは55歳からでした。生き方を変えようと思いました。まず、てんかん当事者として日本てんかん協会千葉県支部の世話人になりました。医療職としても、当事者としてもリハビリテーションを学びたいと大学院へいきました。仕事以外の生きがいを見つけたいと、講談を習い始めました。初めて作った創作講談は、私の経験をもとにした「てんかん・ぴあ・かうんせりんぐ」。後に「病気だって友だち」と改題し、講談看護師・加納塩梅として講談でてんかん啓発活動を始めました。てんかんと共に暮らし、うつ病から回復した私だからこそできることをしたいと考えたからです。
病や障害を抱えた方やご家族に出会い、私はその方々の生き方から学びました。自分の出来ることをコツコツと積み重ねて、自分なりの楽しみ方を知っている方は、様々な困難なことを乗り越えて、その方の出来る範囲で他の人のためにちょっとした配慮ができる方々でした。そしてその方の持つ力を他者のために惜しみなく、そして無理なく発揮している素敵な方たちでした。半面、病や障害だけにこだわってしまい、そこから抜け出せない方の中には、様々な可能性を諦めている方がいました。 55歳で私が入学したのは、筑波大学大学院教育研究科カウンセリング専攻リハビリテーションコース(現在は筑波大学大学院人間総合科学研究科生涯発達科学専攻)。日本で最初の社会人を対象とした夜間大学院でした。私は看護師でしたから、医学リハビリテーションしか知りませんでした。ところが、リハビリテーションは、教育リハビリテーション、職業リハビリテーション、心理リハビリテーション、社会リハビリテーションと幅広いものであることをここで知ります。 若い人のようにはなかなか適応できない熟年大学院生の私に対し、指導教官はこう言って励ましてくれました。「ないものはない。失われたものを嘆くな。残されたものを使え。自分にないものは他人に借りて支援してもらえ。そして今自分にあるもので、惜しみなく他人を支援しろ」。彼もまた、脳出血で倒れリハビリ中でしたので、ご自分を勇気づける言葉でもあったのでしょう。
生きていく軸をつくるととても生きやすくなります。人生いろいろな事が起きますので、その度に揺れはしますが、その度に軸がしっかりとなり根を張ると、多少の揺れはいつものことと思えるようになります。 てんかんとともに生きていかなくてはならなくなった頃、私が生きていく軸となる「ケアの基本」に気が付きました。それは、「お互いに持てる力を引き出しあう」「お互いに自分のことを自分で決める機会を大切にしあう」「お互いに支え合う」の3つです。看護師をしていても、社会生活を送っていても、何か違うなと思った時は、この中のどれかをおろそかにしていた時や、「お互いに」を忘れていた時でした。 「てんかん」とともに暮らし、「うつ病」から回復し、看護師としての職業生活を続けてきた中で分かったことは、病や障害があろうがなかろうが、その人らしく生きていくことが一番大切ということです。自分の軸を作って、根を張っていれば、多少の揺れを楽しむことが出来るようになります。人生には予測のつかない様々なことが起きます。「あっけらかん」と生きていくことが私らしく、「あっけらかん」は自分を楽にするだけでなく、周囲の人たちへも影響していくと気が付きました。 これから進路の選択をする皆さんに伝えたいことは、病や障害があろうがなかろうが、あっけらかんと自分らしくコツコツと暮らしていくことが、人生を楽しむ極意です。あなたが選んだことなら、あなたにとってベストな道になります。
100人に1人は誰もが「てんかん」になります。子どもの時にてんかん発作があり抗てんかん薬を飲んでいたが今は飲まなくても発作がない方、今も抗てんかん薬を服用しているがてんかんの発作は治まっている方、薬を飲んでいても時々てんかん発作がある方といろいろです。大学や専門学校に入ってから、就職してすぐてんかんになる人もいれば、私のように仕事をしてからの人も高齢になってからという方もいます。 てんかん発作は脳に起きた「一時的な不具合」の表れですので、発作を繰り返すこと以外問題はなく、その発作も適切な治療によって8割の人が抑えられます。発作の種類も全身のけいれん発作だけでなく、一時的に体の動きが止まったり、口をもぐもぐしたりと様々なのです。てんかん発作は多様で、本人の意識が一時的にないため自覚できない発作や、周囲には見えない発作、奇異な行動に見える発作など、周囲の理解が得にくいという特徴があります。また、抗てんかん薬の副作用による眠気などが暮らしに影響を与えます。抗てんかん薬を服用し、十分な睡眠をとり、生活を整えてさえいれば抑えられる発作であっても、頑張り過ぎれば発作の引き金になります。
大学教員をしていましたので、てんかんの学生にはよく出会いました。初めての発作が大学で始まった学生もいれば、これまで治まっていた発作が再発した学生もいます。てんかん発作のように見えててんかんではない場合もあります。100人に1人はてんかんですので、教員たちは対応・対処方法を習得している必要がありますが、残念ながら間違った知識を持っている方や、中途半端な知識の方がいることも現実です。ですから、時に当事者が必要な支援方法を伝えなければなりません。 入学したばかりの看護学部の学生が、突然私の研究室を訪ねてきたことがあります。ドアを開けっぱなしにしていたのですが、廊下からニコニコ笑いながら大きな声でこう言ったのです。「こんにちは、1年生の○○です。母に、私がてんかんだということを担任に伝えておきなさいと言われたので報告したら、加納先生はてんかんだから、ご挨拶しておくとよいと言われました。よろしくおねがいします!」 こんなふうに、カラッと伝えてくれるてんかんの学生が増えるといいなと思いながら、こう伝えました。「わざわざ、ありがとう。うれしいわ。たくさん学びたいことがあるだろうけど、睡眠を削ってはいけません。注意することはそれだけです。」 「患者さんの介助をして発作が起きるたら困る」「看護師は夜勤があるから無理」などと、看護師を諦めるよう忠告する方がいるかもしれませんが、よく分からず心配をしているだけです。てんかんの発作は緊張の後、ほっとしてリラックスした時の方が起きやすいですし、夜勤のない仕事は沢山あります。てんかんと共に暮らすことで重要なことは、自分のてんかんをよく知り、仲良くなることです。てんかんと共に働き続けるには、発作の引き金になるのかを知ってコントロールすることに尽きます。看護師であろうと他の職業であろうと体調の管理の基本は同じです。
私は大学院を修了後、2つの大学で教員として13年働き、71歳でまた現場に戻りました。週4日、単身赴任で精神科病院の看護部長をしています。そして、てんかんの看護師として「加納塩梅のてんかん小噺チャンネル」を開設しYouTube動画を発信しています。 「看護の日記念!誰だって諸事情を抱えている」では、ろう、術後小脳障害、多発性硬化症、ALS(筋委縮性側索硬化症)の4人の看護師を紹介しています。てんかんの方で看護師になりたいと考えている方は、「元大学教員が答えます!てんかんだと看護学部に入学できないの?!」も参考にしてください。「病や障害があろうがなかろうが、その人らしく生きていくための知恵」を、多くの皆さんへお伝えできればと考えています。
・加納塩梅のホームページ:https://anbai-storyteller.themedia.jp/ ・YouTube加納塩梅のてんかん小噺チャンネル:https://www.youtube.com/c/kanouanbai ・電子書籍:「復刻版それぞれの誇り―てんかん患者としての私編-」(無料) https://amzn.to/3C7Wh9R ・メールアドレス:kanou.anbai@gmail.com ・Twitter @kanou_anbai